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無職の雑記

Garbage in, garbage out.

2017/04/09

ジョギング
 近所のジョギングコースに走りに行った。2キロ。どのくらい走れるのか分からなかったけど、200メートルで息切れするとは思ってなかった。その後、少し歩いて、呼吸を整え、300メートル走ったら限界が来た。これ以上走ると吐いてしまう。残りは歩いた。


・『暇と退屈の倫理学
 何でこの本を読めなくなってしまったんだろう、というと、例えばアレンカ・ジュパンチッチのこんな見解を共感的に引くセンスが、ダメなのかもしれない。

近代はこれまで信じられてきた価値に代わって、「生命ほど尊いものはない」という原理しか提出できなかった。この原理は正しい。しかし、それはあまりに「正しい」が故にだれも反論できない、そのような原理にすぎない。それは人を奮い立たせない。人を突き動かさない。そのため、国家や民族といった「伝統的」な価値への回帰が魅力をもつようになってしまった。

だが、それだけではない。人は自分を奮い立たせるもの、自分を突き動かしてくれる力を欲する。なのに、世間で通用している原理にはそんな力はない。だから、突き動かされている人間をうらやましく思うようになる。たとえば、大義のために死ぬことを望む過激派や狂信者たち。人びとは彼らを、恐ろしくもうらやましいと思うようになっている。(pp28-9)

 以前読んだ時は、引っかからなかったんだけどさ。

 スラヴォイ・ジジェクは、トランプが大統領になる前に、クリントンが大統領になるよりトランプがなったほうが良い、といって反感を買ってた(確か)。クリントンの選出は既存の秩序の惰性的継続であり欺瞞に過ぎないが、トランプが選出されれば問題の明確な可視化になるであろう、というような理由だったかと思う。まあ、それにも一理くらいはあったと思う。でも、一理程度だとも思う。

 同様に、上記のアレンカ・ジュパンチッチみたいな見解にも一理くらいはあるが、その程度だと思う。で、私は、一理程度の見解(というか気分)を出発点とする話(思想)に付いていく気になれない。フィクションなら話は別かもしれないけど(『ファイト・クラブ』とかね)。


・網谷祐一『理性の起源
 これは、打って変わって(?)面白い。

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

理性の起源: 賢すぎる、愚かすぎる、それが人間だ (河出ブックス 101)

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2017/04/08

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を少し再読する。これは自己啓発書で、自分はもう自己啓発的言葉に興味が無いんだな、と、思った。もちろん、パスカルのこの言葉、

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

は、やっぱりクルーシャルだと思うけど。


確かこの本では、後の方で『ファイトクラブ』を論じてたはずだけど、『ファイトクラブ』的な気分も、私はもうよく分からない気がしてる。

ファイトクラブ』は、コミュニケーションの取れない人々が、「殴り合う」を代替言語として採用した物語だ。最初の方の酒場のシーン、語り手(エドワード・ノートン)と、タイラー・ダーデンブラッド・ピット)が殴り合っているシーンは、幸福に溢れてる。あれは、言葉が初めて通じた瞬間だから。

でも、そのプリミティブな幸福は早晩消えてしまう。単に殴っているだけで幸せだったところに人が集まりだし、グループは拡大する。グループのサイズが閾値を超えると外部から見えるようにもなる。すると、グループは外部=社会との付き合い方を嫌でも考えざる得なくなるが、元々、そのグループは「まともにコミュニケーションが取れない」人々の集まりだ。結局、そのコミュニケーションの仕方は「悪戯」になり、最終的には「テロ」になる。単にコミュニケーションのまともなとり方がわからないという、それだけの理由で、ああなってしまう。あの展開の馬鹿らしさは、コミュ障ならではの悲喜劇なんだ。

ファイトクラブ」はだから、言葉を持たない人(比喩的な意味で)、それでいてコミュニケーションを切実に欲している人を、引きつける(もちろん、人類史上最高にかっこいいブラッド・ピットの強烈さも、大きいけど)。逆にいうと、そこまでの切実さがない場合、話から価値は大きく削がれる気がする。

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2017/04/03

夕方、街には変に人が多くて、4月3日(月)だった。スーツの若い人は新入社員で、他の若い人は大学生とかなんだろう。毎年恒例なんだろうけど、見たのは初めてでないかと思う。当然、羨ましさはある。そういった羨望をもっと若いときに感じてたら、別の処し方もあったかもしれない、とかも思う。羨望や嫉妬にも肯定的な機能はあるし、見栄や虚栄心にだってそれはある。

このブログの初期に、「無職期間の4つの目標」という記事を書いていた。その1つが、「2016年5月29日のTOEICで900点を超える」。結局、その時は受けなかったのだけど、遅すぎるがその時の目標も果たそう。前回それをスルーした理由にはきっと、900点台を取れなかったら立ち直れない的気分があった。今もその辺の確信はないが、そのくらい立ち直るし、何なら別に、昔よりスコアが落ちても良いんだよ。

(ところで、この記事の日付は「2015年」だ…。時間の流れは恐ろしい…。

unemployed.hatenablog.com

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