無職の雑記

Garbage in, garbage out.

そういえば久しぶりにあった母は、若干、明確に衰えていた。実家にいたとき母が「老人」に見えたことはなかったが、帰って顔を見たら、そうなっていた。違和感はすぐに消えたけれど。

神経痛で、歩幅が極端に狭くもなっていた。なるべく痛くないだけの距離を探るようにして足を出す。なのに外に出て、父のペースで歩いていく時の母は痛みなど知らないかのように歩き、階段を昇り降りしていた。父にはその種の配慮はない。母は足が痛い。母はそういうことを言わない人だ。

今すぐどうこう、というわけでもないが、基本的に人は年を取れば障害を負う(か、ある日ころっと死ぬ)ものだから、たとえば10年後など、母がまともに歩けなくなっている、ということも、ないとはいえない。

わたしは、その種のリアリティに直面できると、おもえなかった。というか、今でも思えない。でも、どうあれ直面することになる。今回、某式に出るようになったように、きっと、ほとんどそれが自然であるかのように。

某弟は今でさえ高給取りであるし、今後も給与と地位は上がっていく。彼の時間(時給)は高い。対してわたしの時間はとても安い。ほとんどゼロのようなものだ。こういうとき、時給の相対的に安いほうが雑用をすることになる。だから、母の配慮などもすることになるんだろう。何より某弟は世界のどこにいることになるのかもわからない。今も某国のどこかにいる。

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うまく読めないことの効用

ミランダ・ジュライ『あなたを選んでくれるもの』の原著を半分ほど読んだ。

ジュンパ・ラヒリが、自由に使えないからこそイタリア語を学んでいるのであって、まったく自由に使えるようになったら、わたしはその学習を止めるだろう、とたしか書いていた。自分はそこまでではないけれど、その気分は分かる。『あなたを選んでくれるもの』の最初に登場するマイケルは、60代後半にして男性から女性への性転換を開始したという人だが、彼(女)は、いつからそのような性自認だったのか、と聞かれてこのようにこたえる:

Oh, well, I knew it when I was a child, but I’ve been in the closet all my life. I came out in 1996 and then went back in the closet again, but this time I’m not going to go back in the closet. I’m going to complete the transformation.

(ああ、それはもう子どものときから。でもずっと隠してたの。1996年にいったんカムアウトしたんだけど、またクローゼットに逆戻りしてしまって。でも今度はもうクローゼットには戻らないで、性転換を最後までやりとげるつもりです。)

この、「transformation(性転換、変換)」という単語は、わたしには長い。途中で切れて見えないこともない。つまり「trans(向こう側へ)」+ 「formation(形成)」というふうに。

もちろん、これは実際そのように分割できる(たぶん、語形成的に)。でもそれ以上に、双方のあいだの、ほんの少しの距離を、英語だとうまくまたぎ越せない感じが実際ある。その中間にちょっとだけ立ってる瞬間があるというか。で、その中間って、マイケルが今ーーこのインタビューの時にーー立ってる場所でもあり、「あ」となる。

マイケルにインタビューすることを決定してしまう際のことを、ミランダ・ジュライは以下のように書いてるけど:

There was a pause. I sized up the giant space between the conversation we were having and the place I hoped to go. I leaped.

(そこで会話がとぎれた。わたしは今まで交わされていた会話と、自分が行こうとしている場所とのあいだの途方もない距離をはかった。そして、跳んだ。)

この「跳ぶ(leap)」ときの、一瞬息を止める感じとかも、うまく読めない英語のほうが、ほんとうに息を止める感じで読める。日本語だとどうしても、息を止めるまでもなく既に跳んで(読んで)しまっているから。

もちろん、英語学習者としては、もっとスイスイ読みたいってのは否定しないけれど。

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

べつの言葉で (新潮クレスト・ブックス)

雑記

相変わらず、ブログの記事にタイトルを付けられない。

ブログに通りすがることは偶然で、わたしが定期的に見ている某ブログは、1日のアクセスが20くらいしかない。その人はラインのスタンプを1日中描いてるけど、売上は全然ない。貯金は目減りする、耐乏生活。どう見ても迷走なのだが、迷走だといわれても困るというその不自由さには、親近感をおぼえる。

 ・・・

某式に出て、自分の感情や感覚、そこから生じる言葉のベースは総じて、10代後半から20代後半の、引きこもりの時期の記憶にあるんだろうと、おもった。で、それはもう、期限が切れているのかもしれないとも。いまのわたしが不安なのか、それとも不安だった時の記憶を思い出しているのか、分からないし、どちらかといえば記憶のような気がしている。感覚も記憶のような気がする。脳が、その脳の「手癖」に従い世界を描く。それは初めの頃は実物に似ていたのだが、今ではあまり実物に似ていない。でも怠慢から、惰性で、簡単に描けるそれで代置している。そんな感じ。実物って何? という話でもあるが。

 ・・・

もう少し、頭が良いことを書きたいな。虚栄心でも何でもいいから。たまに、自分が過剰にバカになってる気がすることがある。

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