無職の雑記

Garbage in, garbage out.

樫村晴香

パスカルの『パンセ』を少しずつ読んでいる。

それで思い出したのだけれど、哲学者の樫村晴香さんが、作家の保坂和志さんとの対談(「自閉症・言語・存在」)で、こんなことを言っている。

樫村 […]例えば日本の小学校では、ちょっと勉強ができると、何とかコンクールの表彰状とかもらうことがある。

[…]

樫村 あの紙って特別な紙質で、紙飛行機を作るととってもよく飛ぶ。そうすると教師がすごく怒るんですよ。あの紙には、一等になりました、とか記述してあるのだけど、その情報伝達が終わっても、別の機能があるらしい。モースの贈与論もレヴィ=ストロースも知らなかったけど、未開社会にフェティッシュがあること位は知ってたから、これはとんでもない国に来たと、つくづく暗い気持ちになった。ただ、その頃パスカルを偶々読んだら、そこに「数学者が一生懸命問題を解くのは、問題を解くのが嬉しいのか、それとも後で人に賞賛されるのが嬉しいのか」と書いてあった。彼がどういうつもりでこれを書いたか知らないが、非常に明敏な人だったから、単に世俗的自尊心を非難しただけでなく、問題を解く作用と、人に評価される快感に、構造的同値性を察知していたのではないか。

いや、凄いよね。小学生でパスカル読んじゃうの? とかさ。こういう話を例えば宮台真司がしていても、それは話半分に聞いとけばいいんだけど、樫村さんは装飾的・誇張的なことは全く言わない人だから。

せっかくなので、もうちょっとだけ、この対談を紹介・引用してみる。あるところで、樫村さんが「対談」っていう場では完全にあり得ないまでの長さで、自閉症強迫神経症の症状における並行性および、人間にとっての「遊びの機能」について説明した後、このようにいう:

樫村 […]遊びの獲得は、能受の自由な変換が絶対的前提です。その上で表象や自我、つまり現実にはママがやっていることを、自分がなしうることとして登記する過程、要するに意識が保証されます。だから例えば、猫が母屋の尻尾を追いかける時、これは行為を反転してないので、真の遊びとはいえません

それに対して、猫といえば保坂和志というわけで、超久しぶりに保坂さんが口を開く:

保坂 あ、でもね、猫は遊びと本気はちがうんだよ。爪の出てる出てないで。

これに対して樫村さん:

樫村 でも自衛隊が模擬弾で演習する時、けが人が出ないように細心の注意をするが、遊びではない。ここには本当の戦争と同じ身体支出があり、猫の「遊び」も一緒です。[以下略]

ほとんど鈍器で殴るかのような切り返しだよね、これ。

でも保坂さんって、こんな返しをされても多分まったく平然としていて、やっぱり「猫は遊びと本気はちがうんだよ。爪の出てる出てないで」とか言い続けるのは間違いないわけで、要は保坂さんも半端ないんだけど。

というわけでこの対談、樫村さんの言葉の異様な明晰さ、尋常でない迫力が存分に楽しめる素晴らしいものなんだけれど(引用した部分は枝葉末節で、本編?はもっと凄いです)、残念ながらアクセスは多少悪い。保坂和志さんの『言葉の外へ』の単行本(絶版)に収録されているが、文庫の方には入ってないので。でも、中古で買っとく価値はあるかと思う。本当に息が止まるほどに凄い箇所満載なので。

言葉の外へ

言葉の外へ

ついでに、樫村さんの論文やエッセイなら、保坂さんのHPの「樫村晴香のページ (http://www.k-hosaka.com/kashimura/kashi.html)」で読めます。「ドゥルーズのどこが間違っているか?」とか「ストア派アリストテレス」とか意味はわからないけど凄い。

広告を非表示にする