無職の雑記

Garbage in, garbage out.

2017/04/08

國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を少し再読する。これは自己啓発書で、自分はもう自己啓発的言葉に興味が無いんだな、と、思った。もちろん、パスカルのこの言葉、

人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのためにわざわざ自分で不幸を招いている。

は、やっぱりクルーシャルだと思うけど。


確かこの本では、後の方で『ファイトクラブ』を論じてたはずだけど、『ファイトクラブ』的な気分も、私はもうよく分からない気がしてる。

ファイトクラブ』は、コミュニケーションの取れない人々が、「殴り合う」を代替言語として採用した物語だ。最初の方の酒場のシーン、語り手(エドワード・ノートン)と、タイラー・ダーデンブラッド・ピット)が殴り合っているシーンは、幸福に溢れてる。あれは、言葉が初めて通じた瞬間だから。

でも、そのプリミティブな幸福は早晩消えてしまう。単に殴っているだけで幸せだったところに人が集まりだし、グループは拡大する。グループのサイズが閾値を超えると外部から見えるようにもなる。すると、グループは外部=社会との付き合い方を嫌でも考えざる得なくなるが、元々、そのグループは「まともにコミュニケーションが取れない」人々の集まりだ。結局、そのコミュニケーションの仕方は「悪戯」になり、最終的には「テロ」になる。単にコミュニケーションのまともなとり方がわからないという、それだけの理由で、ああなってしまう。あの展開の馬鹿らしさは、コミュ障ならではの悲喜劇なんだ。

ファイトクラブ」はだから、言葉を持たない人(比喩的な意味で)、それでいてコミュニケーションを切実に欲している人を、引きつける(もちろん、人類史上最高にかっこいいブラッド・ピットの強烈さも、大きいけど)。逆にいうと、そこまでの切実さがない場合、話から価値は大きく削がれる気がする。

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