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無職の雑記

Garbage in, garbage out.

翻訳

『文芸翻訳入門』という参考書みたいなタイトルの、でも全然参考書じゃない本を読んでる。その中の一つの文で、西崎憲さんが、「じつは筆者が訳したもので、ほかの方と性差の見解を異にする作品がふたつもあって、それに関してはもちろん心穏やかではない」とあって、凄い。超一流の翻訳家が、原文のキャラクターの性別を確定できない場合があるらしいのだ。


以前ドン・デリーロの『ボディアーティスト』の原文を翻訳と対照させながら読んで初めて、文章の「彼(he)」の意味がわかったのを思い出した。

主人公の女性の夫が自殺する。彼女はその後、まだ数ヶ月も契約の残った、1人では大きすぎる海辺の家に残される。ある日、その家の内部にかすかな物音がする。小動物のようで、でもそれにはどこか図ったかのように潜んでいる感触もある。彼女は家中を探し回る。何も、見当たらない。見つかる。

それはいつからその家に潜んでいたのか不明な、知的に障害のある男(の子)で、彼は自殺した夫と彼女の会話をずっとどこかで聞いていたのだろう、あたかもテープレコーダーのように正確にその会話を記憶しており、気まぐれに再生する。彼女は彼に、死んだ夫の言葉を発して欲しいと思う。言う。強要する。半ば気が触れてしまったかのように。

その時幾度も「彼(he)」と当然ながら小説には書かれることになるわけだけれど、その「彼(he)」は、目前の障害のある男(の子)を指すと同時に自殺した夫も指しており、双方は混ざりあい、区別できない。その「混ざっている」ということを(これはこの小説の根っこなのに)、原文を読んでみるまで自分は分かってなかった。

混ざった「彼(he)」は次第に分離する。彼=夫の髭を剃ったあとの顔とはどんなだっただろう? と彼女は思い出せないことに気づいたりもする。分離は端的な時間の経過であるとともに、芸術家ーーボディアーティストーーとしての彼女が「事実」を自身の身体へと書き込み、消化/昇華する過程でもあり、ある日男(の子)は消えている。

文芸翻訳入門 言葉を紡ぎ直す人たち、世界を紡ぎ直す言葉たち(Next Creator Book)

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ボディ・アーティスト (ちくま文庫)

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